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遠くの方で誰かが呼んでいた。
「いゝや、まだ」
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
その子供染みた好奇心に輝いている横顔は、この老人の胸の奥から恐らくその年齢と調子を合せてゆつくりと流れて来る悦びのためもあつたらう。その悦びの源泉はもとより房一にあつた。
「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
焼香が済むと別室へ案内された。だが、こゝでも各自に大体自分の坐らせられる席を心得ていながら、すぐには通らうとしなかつた。で、神原直造が一々その人の前に行つてそれぞれの席へ順に案内した。正面の床柱の前には大石正文が猫背のまゝ顎を突き出した恰好で坐つた。その次は上町の醤油屋の主人だつた。正文と等位置の左手へかけては堂本が坐つて居り、大石練吉がその隣にいた。二三人置いて庄谷の顔が見えた。その辺りが上座だつた。
言葉つきは叮重だつたし、云つたことも何ら不自然ではなかつた。だが、その挑いどむやうな強い眼の色と全身に滲み出た一種圧迫的な怒気とはその表面の叮重さを明かに裏切つていた。効果は覿面てきめんだつた。
房一が声をかけて回転椅子を押しやると、
徳次は、両手に海苔まきとゴマをまぶした握飯と二つとも慾ばつて持ち、紙の袖をいやといふほどたくし上げ、冠をどこかへ脱ぎすてたので、いがくり頭ときよろりとした眼とを何かむき出した風に目立たせながら、足を踏んばつて云つた。
「すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか」
練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
「あいつももう仕かたがないのですよ。『青ペン』通いばかりしているのですから。」
と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。