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相沢は釣られて思ひ出したやうに愛想よく答へたが、その歩き出した足は家の方へではなく、馬の方に近づいて行くといきなり親しげに平手で軽く馬の首を叩いた。驚いたやうに二三度首を振つた馬は、すぐ目をつむつて、快げにその光沢のある首を伸ばしぢつと愛撫をうけた。相沢はふりかへつて房一を得意さうに眺めた。彼はさつきから、房一がこの馬に気をとられているのを、そして馬を見るときの房一の目が一種の特別な光りを帯びているのに気がついていたので、どうしてもかういふ光景を演じて見せたいといふ子供染みた欲望を押へることができなかつたのである。
今彼が得て帰つた「医師高間房一」としての地位は、河原町に対する彼の野気を示すに恰好なものであつた。帰郷以来彼を迎へた河原町の人達の眼に、房一はその証拠を見た。だが同時に、彼が押して得た一歩か二歩を隙さへあれば押しもどさうとするやうな色も見分けた。若し彼が何かの意味で失敗すれば、彼等はすぐに嘲笑に転じ、又あの鈍い圧迫の下敷にして彼の気力を根こそぎにしてしまふだらう。
「あん」
神経質な目ばたきをしながら、練吉は口早に引きとつて云つた。
何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしている彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つているのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つている爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫なで上げられてでもいるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つている彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでいるのを感じているやうに見えた。
「さやうで御座りますか。お忙しいところを御苦労さまで」
「ちつとも知りませんでしたよ」
それから間もなく、馬の世話は房一の手に委ゆだねられることになつた。彼は一心に手入をした。彼よりも馬の方が身綺麗であると思はれる位に馬は毛並みも艶々として来た。河土堤の上の長い路で彼は馬を疾駆させるのが常であつた。裸馬の背から腹にかけて一本の木綿帯をくゝりつけ彼は足の親指をその帯にはさんだだけで、小さな逞しい肩を前こごみに手綱をゆるめるために両腕を前に曲げひろげ、鼻の穴をひろげて、馬を走らせた。それは町とは河をへだてた反対側の土堤で、路ははるか上手の殆ど山に突きあたる地点まで伸びていた。彼が馬を奔はしらせるにしたがつて、河苔かはごけの匂ひや山の草木の香などがぱあつと彼をも馬をも包み打つて来る風の中でした。未だ様々な思念や野心などの形づくる場所のない彼の小さな頑丈な肉体の中で、彼の魂は何を欲し何を求めていたのか、裸馬の背でたえず路の前方の或る一点を見つめ、はげしい動揺に身を任かせている彼の眼には、一種大胆不敵な歓喜の情が燃え閃めいていた。河向ふの磧かはらで遊んでいる町の子達は、蹄ひづめの音で房一の姿を認めた。あたりの物静かな、音といへば河の瀬の低い単調な音ばかりでけだるいよどんだ空気の中に突然としてはげしい蹄の音が起る。それは河を越し、町の裏の山腹に反響して、何ごとかあたりをかき乱すやうに物々しく聞える。はじめは房一の姿は見えない。馬だけが、首を張り出し尾をなびかせ、荒々しく何ものか掻きこむやうな形に前脚を速く閃めくさまに繰り出して奔はしるのが見える。そして、その首すぢにつかまつて馬と同じやうに前屈みに身体を張り出した小粒のやうなもの、房一の形が眼に入るのであつた。呼んでも聞えはしない。また、聞えても彼はふりむきもしない。そのまゝはるか上手の方に小さく認めがたくなる。と思ふと、しばらくして又前と同じやうな蹄の音がして、それはしだいに迫つて来て、今度は房一の顔が待ちかまへている子供達にもはつきり認められるやうに思はれる、だが、彼は往きと同じに得体のしれない荒々しい一塊の悪魔の子のやうに、子供達の呆然と眼を瞠みはり立つている対岸を尻眼にかけて疾駆し去るのであつた。
「あら、ほんとうに沢山とれたんですね」
盛子の妊娠を耳にしたのはまだ病気前のことであつた。だが、間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとして焦あせつた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつていた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはいたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつていた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしているかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つていたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つていた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけていたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へていたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた!今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。
そこに、房一は、酒のために紅くなつてはいるが、そして、まだ額のあたりに筋張つた色が立つてはいるが、稍やゝ前こゞみになつた半白の頭を見た。それは河原町の人などには見られぬ線の粗あらさとどぎつさこそあつたが、想像したよりもはるかに老人だつた。
が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでいることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。
「まあ、のみなさい」