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    あるとき一人の女の客が私に話をした。

    読経どきやうはまだ始まらなかつた。

    「えらい評判ですなあ。けつこうですよ。ぜひ話しに来て下さい。わたしはこんなにいつもひまですからな」

    「畜生、弱い奴だ」と、根津は笑った。

    こんな風でありながら、盛子は小ざつぱりと身ぎれいで、いつの間にそんな雑用を片づけるのかと思はれるほどだつた。いくらか背高ではあつたが、その身体つきにはふしぎな柔味が感じられた。それは娘の頃のまとまりのない柔さではなく、成熟した靱しなやかな柔味だつた。彼女自身はさういふ結婚後の肉体上の変化に気づかなかつたが、それは無意識のうちに感じている房一との結婚生活の幸福さを意味するものだつた。

    「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」

    と、云つたまゝ直造は首を落して聞き入つていた。房一が云ひかけた時、直造の老いてはいるが練ねれた頭は即座にその意味を悟つた。そして、自分の手落ちだつたことを認めていた。が、この不意打は少からぬ打撃でもあつた。彼はこれまでの生涯に自分が主人役をつとめて来たこの家の中で、未だかつてこんな思ひがけない反撃を喰つたことはなかつた。いや、どこの家の集りでも見たことはない。すべては古いしきたり通りに、一定の型通りに行はれ、それが乱されたことはなかつた。それは彼の身体にすつかり滲みこんでいるあの雅致のあるゆつくりとした段取りのやうに、永い間に築かれ自然と支へ合ひ、ゆるぎのない目立たぬ日常の確信といつた風なものになつていた、――それがこの瞬間に思ひがけない形で動揺するのを覚えた。

    小谷は房一に話しかけた。

    「往診?ふむ、ふむ」

    「だつて、喜作さんはこの土地にはいないでせう」

    廻転椅子に肥つた身体を一見窮屈さうにはめこんだまゝ、房一はその捉へにくいものを捉へようとするかのやうにぢつとして考へに耽ふけつた。回想はいろんなことに飛んだ。結婚当初の、あのはじめて我が手の中にしつかりとつかんだといふ気を起させた盛子の、靱しなやかな身体がつくり出す自然な女らしいしな、健康な溢れるやうな慾望、――口のあたりをもごもごさせる徳次、滑つこい河石、――相沢へ往診に行く途中の坂路で、ずつと上の方から自転車をぴかりと光らせながらだんだん大きく現れて来た、あの印象的な大石練吉との邂逅かいこうや、盛子の妊娠、道平の卒倒(その道平はあれから経過がよくて、今では多少不自由ながらぼつぼつ歩き出すほどになつていた)だのいふことが、その一つ一つはそれこそ手につかめるほどにはつきり目の前に浮んで来ながら、全体としてはひどく遠い前のことだつたやうにも又つい昨日のやうにも思はれるのであつた。それらのことは、房一とは切つても切れぬものとして、何かしら意味があるやうに感じられもしたが、同時に部分々々としては記憶の中で精彩を放つにすぎない互ひに独立した、単に印象の鋭いいくつもの火花のやうにも思はれた。それがあの一年といふものだつた。すべてが一年の中に過ぎて隠れこんでしまつた。これがあの「過ぎ去つた」ことだつた。しかも、過ぎ去つたといふ決定的な響きにもかゝはらず、それは何といふとりとめもない曖昧なものだらう。あらゆることが、あのつい二三ヶ月前に鬼倉と対むかひ合つた晩のことさへ、まるで他愛のない、夢の中の出来事としか思へないのであつた。しかも、相手の隈取りのやうな荒い皺の走つた顔や、静かで不気味な落ちつきと、低い力のある声などは、今でも軽い戦慄を思ひ出させるのではあつたが――。それは或る夜の突発的な情慾のやうに、何かしら後うしろめたい気持さへ感じさせた。が、それさへも過去のなだらかな手つきによつてぼかされ、平坦になり、記憶の中にいくらか異様な突起を見せているに過ぎなかつた。あれから、鬼倉とは往診の途中で一二度会つた。彼は例の荒い皺を、あの晩のやうに深く険けはしくはなく、ゆるめて、そのために一層老人臭い顔になりながら会釈ゑしやくをした。そして、一度は手にできた皮膚病を診てもらひに房一のところに来さへした。その時のことであるが、彼はふいに自分の死んだ一人息子の話をした。

    ふいに、彼は頭を上げた。

    「いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ」

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