貴方の見ているドメインは
このページについて
「どうもこれぢや――」
「水はこんなにきれいでたつぷりしているだらう。鯉だつて鮒だつて、鯰なまずも、ハヤも、鰻うなぎ、アカハラ、それに鮎は名物だらう。こんなに沢山魚のいる河が他にありますかい」
だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診みてもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾かしげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びていた)彼の持牛についた虱しらみをとる薬はやはり人間にも同じ効きき目めがあるのかね、と訊いたりするのであつた。
男は始めにびつくりさせられて、今さう聞くと多少のみこめて来た様子であつた。どこも悪くないと云はれたこともうれしかつたらしい。房一はその腕をひつぱつて顕微鏡の前につれて行き男にのぞかせた。
昨年の冬あたりから、何を思つたのか彼は写真に残つている先代のやうに髯をのばしはじめた。最初のうちはもじやもじやしたごま塩の汚たならしい色で、皆から可笑をかしがられてばかりいたが、のびるにしたがつて白味を加へ、似合つて来、そのあることがあたり前にさへなつていた。殊に病中には、彼がもどかしがつて口をあくあくさせる度に、髯のはしがびりびりふるへ、はね返り、遠くにいても彼が何か云ひたがつていることが判つたくらいで、したがつて彼の身にもついていれば、はたの者の目にもすつかり馴染まれていたのである。
「どうでした」
「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩うるさがりもせず答へた。
と、小谷は目を丸くした。欲しさうだつた。すると、逸早く、
間もなく千光寺の山門を出た房一は、殆ど人通りと云つてはない一本町の本通りを更に上手へと歩いて行つた。両側には軒の低い、一体どんな商売で暮しを立てているのか判らないやうな、古障子を閉めきつた家が並んでいた。その間々にちつぽけな、素人しろうとくさい塗り方をしたニス枠の飾窓に、すぐに数へられる位にばらつと安物の時計を並べた家や、埃の一杯かゝつている雑穀屋の店さきなどがはさまれていた。まつ昼間だと云ふのに、通りには殆ど人の気配がなかつた。或る家の前の土間では、犬が一匹、その犬は捲の尻つぽをくるりとさせたまゝ、腹を地につけて坐りこみ、いかにも興味がなささうな、誰か通るから見てやるんだぞ、と云ふやうな様子で房一を眺めていた。その少し先きの家の縁側では女の子が二人、くたくたに古くなつて、紅いつけ色の滲んだ布ぐるみの人形をいぢつていた。口を利かなかつた。たゞ肩さきを擦りつけて手さきを動かしているだけだ。それで、寝かされたり、起されたり、とれかかつた手をぶらんとさせたりする人形よりも、黙りこくつてそれをいぢつている女の子達の方が、この薄ぼんやりした通りに似合つて、もつと人形染みていた。
地名も旅館の名もしばらく秘しておくが、わたしがかつてある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れないはずであるから、ここは確かに閑静であるという。なるほどそれは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽ひき地物じもの屋やへ買物に立寄った時、偶然にあることを聞き出した。一月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であるということがわかった。
これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつていたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいている家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味していた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いていた。
聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出ていたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑をかしがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。